最後二日名古屋

昨日が日本での最後の演奏でした。

この夏は後半本当にたくさんたくさん演奏したけど

毎晩同じメンバーで演奏する事の難しさと、
その楽しさとか、

常に新鮮な気持ちで演奏に臨む事の難しさと、
その重要性とか、

何も持たない事の難しさと
それが演奏に与える影響力の強さとか

当日リハだけでやる演奏の難しさとか
適応力の早さの必要性とか

そういうことを考えました。

曲を覚える事の大切さとか
自分と人との意見のバランスとか
タイムキープの難しさとかも再認識しました。

共演者のみんな、聴きに来てくれた皆様、ほんとうにありがとう。

考え。

今日友達にあった。
彼女はピアノを引きながら先生もやってるけど、
やっぱり今の子達は弱いと言っていた。
精神的に。
それは、携帯やソーシャルネットワークと言ったものの弊害なんだろうな、
と僕は思う。常に誰かと繋がっていられるから精神的な強さが育たないのかな。

別の友達とこの夏に、僕らの世代は昔のものの良さと、ネットとか携帯とかそういう便利なものの良さと怖さみたいなものをどちらも理解している最後の世代なんじゃないかって言う話をした。
十代の多感な頃にポケベル、PHS、携帯とか、カセット、MD、MP3みたいな媒体の変遷を経験した最後の世代なのかも。

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問われて答えたのではなかった
そのことばは涙のように
わたしからこぼれた

辞書から択んだのではなかった
そのことばは笑いのように
私からはじけた

知らせるためではなかった
呼ぶためではなかった
歌うためでもなかった

ほんとうにこの私だったのだろうか
それをあなたに云ったのは
あの秋の道で
思いがけなく ただ一度
もうとりかえすすべもなく

「ことば」谷川俊太郎

光と影

自分を現在としたらどっちが過去でどっちが未来なんだろうって考えてみたけど答えが出なかった。

谷川俊太郎

最近谷川俊太郎さんの詩を読んでいます。

めちゃいいです。

同じ言葉なのにどうしてこんなに違うのか不思議。

どれだけ頭が良くて
難しい言葉を巧みにつかえたとしても、

どれだけ話術に長けていて
かけひきがうまくても、

本質的な部分で一言の重みを理解していなかったら
たとえ10000の言葉をしゃべったとしても、
たったひとつの単語に勝てないと思う。

音楽も同じ事だと思った。

空が

今日も友達が来てくれた。友と友と子と子。にぎやかな則武家でした。

たくの散歩で行った矢田川の空が、
今日もとても綺麗なことに気づいてこころが幸せになった。

ほんと、些細な事に気づかない事で人間はどれだけ不幸せになっているんだろう。
気づいてしまう事で、知る事で不幸せになる事もあるけど、
同じように不幸せになるなら、僕は知りたい。

そんな僕もたくさんのことを見落としてしまっているのかもしれないけど。

明日は阿久比の谷性寺というお寺でサマーフェスティバルに出演します。
お寺で演奏します。心穏やかに演奏してきたいと思います。