最近の頭の中

昨日甲陽時代の友人と飲んだ時の隣の酔っぱらいのおもしろいこと。
それから我らが林くんのトークもおもしろいこと。
やっぱりさっすが林くんでした。

火曜日に対バンしたうずらな徹の曲が頭のなかでずっと流れてます。
野津くん、田中ゆうこさん、大竹徹さんの3人のサウンドがとても好きでした。

野津くん率いるrokugatsu(w/近石さん、萬さん、僕)もとても楽しくてまたやりたいなと思いました。

月曜日のduoも対バンのAO acousticもめちゃ面白くてとても刺激を受けました。

頭の中がまたどんどん変わっていく感じ。

こういう感じ、ニュージャージーにいる時は勉強だのリサーチだのの毎日で逆にあんまなくてそういうことをすごく悩んだんだけど、このゆっくりとした5月と6月でいろんなことがリフレッシュされて、過去からも解き放たれて、またどんどん自由になれてる気がします。

自由と責任

遠藤周作の満潮の時刻と言う本を読んでいます
この人の作風がだんだん好きになって来た

今日想ったことです。

自分から産まれたもの、人から産まれたもの、
そこに存在するもの全て事実として

でも全てを受け入れる事は
自分をなくす事とは違う。
 
全てを受け入れる事は
全てを許す事とも
またちょっと違う。

そこんとこがまだはっきり見えてこないな。
この夏の課題。

セメスターもほぼ終わり。

ふたつのリサーチペーパーも終わり、残すはあとプレゼンテーションがひとつだけです。

このセメスターの間、僕は”日本人とジャズ”ということについてリサーチしたのですが、これが思った以上に奥が深く難しかったです。

日本に於けるジャズの歴史とかそういう内容ではなくて、もうすこし民族学的、社会学的にアメリカ生まれの音楽であるジャズを通して”日本人らしさ” を表現するための手段を日本人がいかにして試行錯誤して来たか、とか日本のジャズの発展と日米関係の歴史の関連性とかそんなことです。

いろんな事を考えさせられて、実際演奏したくなくなった時期がしばらくありました。

ただ今になってみると、やってよかったなぁと思います。

自分のアイデンティティとかそういうのをしっかり認識してこそのオリジナリティなんじゃないかな、と思うからです。これは日本人としてのオリジナリティではなく、個人のレベルの話です。

それから文献にたくさん出て来た”Japanese jazz”というくくりはどうなのかなとちょっと疑問です。もちろんどう定義するかによりますが。。

250

250ページの論文を読み終えました。
長かったけど、いろいろ勉強になります。

前にも書いたけど日本のジャズミュージシャンがいかにして
アメリカの真似ではない「日本人のジャズ」というものを作ろうとして来たか。
でも筆者の立場はちょっと違って、日本人としてのアイデンティティを探す中で個人個人がよりクリエイティブ になりそれぞれのスタイルがうまれたという考えです。
だから彼的には「ジャズにおいては人種や国籍がどうこうというより、個人個人の経験や考え方のが大事だ」という事だと思います。
これには僕も大賛成です。

それから彼はウィントンマルサリスの流れに触発された90年代の日本のジャズ維新とよばれる動きが「ジャズは黒人のもので彼らが一番優れている」ということを暗に認めてしまった事で「図らずも約一世紀にわたる日本のジャズを正統化しようという努力を無駄にした」と批判的に書いてあります。

どうなんでしょうか。

批判を恐れずに書きますが、ジャズは黒人の音楽だと一概に言うのは僕は賛成しかねます。
というのもそこには西洋的な和声であったりネイティブアメリカンの影響もあります。
黒人の奴隷達が運んで来たものだけではジャズは成立していないと思います。

多様化したジャズのスタイルの中で、黒人”的”なものがあったり白人”的”なものがあったりアジア人”的”なものがあったりすると思いますが、その境界というのは絶対的なものではなくてその中をミュージシャンは自由に行き来できると思います。

カテゴリーというのは聴き手が分類する訳で、奏者は自らの信念に基づいて演奏しそれがどんなふうにカテゴライズされるかというのはどうでもいい事だと思います。そこにその個人らしさは必ずあると思います。誰かの真似をしようとしていない限り。

日本に帰ったら日本のジャズの歴史について書いた本をいろいろ読みあさってみようと思います。